与謝野晶子
1878.12.7 -1942.5.29享年63歳
明治11-昭和17
女流歌人/歌詠み/詩/作家/思想家
琴/三味線
幼い頃から文学に親しむ
9歳:漢学塾入塾
16歳:自作歌を雑誌投稿/入選を重ねる
短歌の世界にのめり込む
関西青年文学会入会
与謝野鉄幹:文学集団「東京新詩社」結成
主宰する「明星」に投稿
ある宴席で鉄幹と会い人間的魅力に惹かれた
22歳上京
1901.明治34『みだれ髪』
表紙装丁デザイン:藤島武二
明治中期:花開く浪漫主義運動の指標となった
刊直後1901.明治34年
歌の師である与謝野寛鉄幹:結婚
1973.昭和48/孫与謝野馨:主婦の友社より復刊
日本初男女共学校創立「文化学院」教授
1935年昭和10与謝野鉄62歳死去
紫式部『源氏物語』を親しみ現代語訳
多くの人に親しまれるきっかけとなる
社会問題/教育問題/評論
表現世界の幅を広げた
50,000首もの歌を残した
京都を訪ねたときの思い出
秋を三人 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき
夫:与謝野鉄幹/歌人慶應大学教授/文化学院学監
ロマン主義文学の中心的人物
父:大阪府堺市堺区和菓子屋『駿河屋』
老舗和菓子/練羊羹発祥
兄:鳳秀太郎/電気工学者/電気学会8代会長
東京帝国大学工学部教授
孫:与謝野馨/内閣官房長官/文部大臣/財務大臣.等
森鷗外 1862.2.17-1922.7.9大正11
陸軍軍医総監/明治文豪
小説家/作家/翻訳/評論家
どの分野も一流の仕事をしたと称賛
1881.明治14:19歳/東京大学医学部卒業
1884.明治17./衛生学研究ドイツ留学
後に留学中の経験を書く=『舞姫』
1899.明治32.軍医監第12師団軍医部長任命中
北九州市小倉高級軍人用借家/約3年過ごす
明治時代の町屋形式の家屋
北九州市指定文化財
小倉赴任当初鷗外は不服に思っていた。
天皇を守る近衛師団軍医部長/軍医学校長/高い地位で仕事をしていたから。
小倉へ赴任事実上の左遷。近衛師団の仲間.慕っていた部下.非常に驚いた。
鷗外も憤慨し辞職の決心をしていた。
左遷は先輩や同窓生からの嫉妬が原因らしい。
医学界/文学界両方の名声.部下の信頼も厚かった為.鷗外を面白く思っていなかった。
しかしこの機会に.フランス語を学び古代インド文語.梵語ロシア語を独学で勉強し毎日を送った。
引用/抜粋:KOKURALLY
鷗外は雑誌に多くの作品を載せ
生涯にわたり与謝野鉄幹晶子夫妻を支援し
文学上の影響だけでなく日常的にも深い交流があった.
小倉時代文筆活動はしていない
1902.明治35/第1師団軍医部長帰京
2年後/日露戦争第2軍軍医部長出征
1907.明治40/日露戦争後軍医最高位陸軍軍医総監
(中将)相当.陸軍省医務局長就任
明治40年以降/多くの詩歌を残す
当時の歌壇代表者を自宅に招き
歌壇の革新を投じ
『観潮楼歌会』催した
創作活動を再開
1912.大正元年/殉死した乃木希典の検死に立ち会う
歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』等を発表
当時の歌壇代表者
与謝野晶子/夏目漱石/石川啄木/岡倉天心/伊藤左千夫/佐佐木信綱他
筆記:静涯結心
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