与謝野晶子

明治11-昭和17

琴/三味線

幼い頃から文学に親しむ

9歳:漢学塾入塾

16歳:自作歌を雑誌投稿/入選を重ねる

短歌の世界にのめり込む

関西青年文学会入会

与謝野鉄幹:文学集団「東京新詩社」結成

主宰する「明星」に投稿

ある宴席で鉄幹と会い人間的魅力かれた

22歳上京

1901.明治34『みだれ髪

表紙装丁デザイン:藤島武二

編集:者与謝野寛鉄
著者:与謝野晶子
イラスト:藤島武二発行元
東京新詩社
伊藤文友館の共版

明治中期:花開く浪漫主義運動の指標となった

刊直後1901.明治34年

歌の師である与謝野寛鉄幹:結婚

1973.昭和48/与謝野馨:主婦の友社より復刊

参照:国立国会図書館

日本初男女共学校創立「文化学院」教授

1935年昭和10与謝野鉄62歳死去

紫式部源氏物語』を親しみ現代語訳

多くの人に親しまれるきっかけとなる

社会問題/教育問題/評論

表現世界の幅を広げた

50,000首もの残した

紅葉の名所/京都市左京区禅林寺:永観堂
仁寿3年:853創建

京都を訪ねたときの思い出

秋を三人 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき

夫:与謝野鉄幹/歌人慶應大学教授/文化学院学監

ロマン主義文学の中心的人物

父:大阪府堺市堺区和菓子屋『駿河屋

老舗和菓子/練羊羹発祥

兄:鳳秀太郎/電気工学者/電気学会8代会長

東京帝国大学工学部教授

孫:与謝野馨/内閣官房長官/文部大臣/財務大臣.等

陸軍軍医総監/明治文豪

小説家/作家/翻訳/評論家

どの分野一流の仕事をしたと称賛

1881.明治14:19歳/東京大学医学部卒業

1884.明治17./衛生学研究ドイツ留学

後に留学中の経験を書く=『舞姫

1899.明治32.軍医監第12師団軍医部長任命中

北九州市小倉高級軍人用借家/約3年過ごす

明治時代の町屋形式の家屋

北九州市指定文化財

北九州市:文化企画課
森鷗外旧居
小倉北区鍛冶町一丁目7番2号1899年この地で過ごした
参照:朝日新聞デジタル
参照:PHP研究出版社
参照:文京区立森鴎外記念館
参照:慶応義塾大学

小倉赴任当初鷗外は不服に思っていた。

天皇を守る近衛師団軍医部長/軍医学校長/高い地位で仕事をしていたから。

小倉へ赴任事実上左遷。近衛師団の仲間.慕っていた部下.非常に驚いた。

鷗外も憤慨し辞職の決心をしていた。

左遷は先輩や同窓生からの嫉妬が原因らしい。

医学界/文学界両方の名声.部下の信頼も厚かった為.鷗外を面白く思っていなかった

しかしこの機会に.フランス語を学び古代インド文語.梵語ロシア語を独学で勉強し毎日を送った。

引用/抜粋:KOKURALLY

鷗外は雑誌に多くの作品を載せ

生涯にわたり与謝野鉄幹晶子夫妻を支援し

文学上の影響だけでなく日常的にも深い交流があった.

小倉時代文筆活動はしていない

1902.明治35/第1師団軍医部長帰京

2年後/日露戦争第2軍軍医部長出征

1907.明治40/日露戦争後軍医最高陸軍軍医総監

(中将)相当.陸軍省医務局長就任

明治40年以降/多くの詩歌を残す

当時の歌壇代表者を自宅に招き

歌壇の革新を投じ

観潮楼歌会』催した

創作活動を再開

1912.大正元年/殉死した乃木希典の検死に立ち会う

歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』等を発表

当時の歌壇代表者
与謝野晶子/夏目漱石/石川啄木/岡倉天心/伊藤左千夫/佐佐木信綱他

乃木希典・犬養毅 | 木下静涯 公式サイト

乃木希典・犬養毅・福澤諭吉・慶應義塾大学・乃木神社・港区赤坂六本木・静涯結心

筆記:静涯結心

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