山中信天翁
山中静逸
1822.10.16-1885.5.25享年64歳
文政5年9.2-明治18年
愛知県出身
書家・政治家
1913年大正2年従四位授与
父:山中七左右衛門.山中子敏は
日本各地を歩き地理を探求し
東浦で子弟の教育を行った人物である
信天翁山中先生之碑
京都大学貴重資料
静逸は大阪の篠崎小竹師事
嘉永元年1848年父が死去し
家業を継ぎ寺子屋を開いた
画賛 : 松竹梅Author早稲田大学蔵
漢学を志して上京
伊勢国の斎藤拙堂に入門
3年後京都に出て
勤王の志士:明治維新の誕生に尽力した人々
と交わり国事に身を挺した
富岡鉄斎とは師友であった
安政の大獄では多くの同志を失い
自らの身にも危険が及んだ
難を逃れて修学院村に身を隠した
1822年(文政5)現在の碧南市東浦町に生まれる
1854年(安政元)京都に上り勤王の志士と交わる
1863年(文久3)天皇に新しい政治の方法を上申する
1867年(慶応3)岩倉具視に従い天皇親政命令書を作成する
1868年(慶応4)岩倉具視を助け明治新政府で活躍し明治天皇東京行幸の御用掛になる
1869年(明治2)石巻県(現在の岩手県)の知事となる
1885年(明治18)64歳で没<参考資料・ホームページ>
「愛知に輝く人々8」
「碧南の偉人」引用:碧南市市史資料調査室 0566-41-4566
明治維新の主役を勤めた岩倉具視と親交を深め、山本復一と共に、王政復古大令の創草につくす。1868年鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達の任に就き、東京遷都の際に明治天皇の御用掛を勤め金穀調達にあたる等尽力した。
明治維新後には公家の岩倉具視に仕える。1868慶応4年鳥羽・伏見の戦いでは、朝廷側の食糧や軍事費を調達する役目を担う。明治天皇の東京行幸の際には御用掛を務めた。1869明治2年7月には桃生県(宮城県)知事就任.明治3年9月登米県知事に就任した。
「水墨山水図」 1887年
愛知県碧南市に信天翁碑が建立され
伝記が出版された
筆記:静涯結心