小林一茶
1763.6.15-1828.1.5享年65
宝暦13.5.5-文政10.11.19
出身:信濃国/長野県:柏原
15歳/江戸.奉公に出る
わかりやすく親しみやすい句
を『一茶調』と呼ばれる
2万句の俳句を残した
江戸時代を代表する俳諧師の一人
松尾芭蕉/与謝 蕪村/小林一茶
有力な自作農家の家系。3歳の時母が亡くなる。継母との関係が悪く、一茶を可愛がってくれた祖母の死後、継母との仲は悪化。父は一茶と継母を引き離す為、15歳の一茶を江戸に奉公に出す。継母との確執は一茶の性格、句作に大きな影響を与えたと言われる。15歳で江戸に奉公へ出た後、約10年間一茶の音信は途絶える。後に非常に苦しい生活をしていたと回顧した。39歳帰郷し父を看取る。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分ける様にと遺言を残した。しかし13年間相続問題で争う事になる。一茶の故郷である柏原では、農家の子弟が江戸に奉公に出ること自体は当時珍しいことではなかった。が!長男であり、中位クラスの農民が、江戸に奉公に出ることは異例なことであった。一茶が故郷を出た時分には3.71石であった持高が、約9-10石にまで増加し、柏原の中でも有力な農民となった。継母と腹違いの弟は小林家の財産は自らが増やしたもの。と自負を持っていた。40代実力ある俳諧師との交流を深め「一茶調」と呼ばれる作風を確立した。*生活は不安定であった。生活の安定を求めた一茶は帰郷し、遺産相続問題の交渉を続けた。51歳和解した。家族家庭には恵まれなかった。52歳結婚を繰り返し65歳生涯の幕を閉じた。抜粋引用:ウィキペディア/一茶記念館
俳諧修行の旅
東北地方への行脚 より引用
江戸時代の俳諧師は、師匠の許しを得て修行の旅に出る習慣があった。師匠からは各地の俳人への紹介状を渡され、各地を行脚する中でそういう俳人を尋ねて廻るのである。しかし師匠からの紹介があるとはいっても簡単に世話になることは出来なかった。紹介状とともにお互いの句を披露しあうと、さっそく付句の試験がある。そこで主人が納得するほどの腕前であれば客人として遇されるものの、上手くいかなければこれこれの宿があるから明日おいでくださいと言われてしまう。連日このような環境下で、俳諧師はその腕を磨いていった.
『松蔭に寝てくふ六十余州かな』
松蔭:江戸の時代は
六十余州:日本中/どこへ行っても
寝て喰っていける平穏な国
俳句の指導や出版活動を行い.句日記/七番日記/八番日記/文政句帖/句文集/おらが春/等2万句におよぶ俳句を残した。故郷柏原:長野県信濃町では.一茶をテーマとした記念館も建設された。
続:静涯師事/*呉春
筆記:静涯結心
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