木下源一郎
木下静涯 // 木下源重郎
出生地:長野県駒ヶ根市(南信州)
晩年:福岡県北九州市小倉北区
生誕:明治20年/1887.5.16
享年:昭和63年/1998.8.27
没年102歳
木下静涯プロジェクト
出生地:東京都静涯庭
誕生:令和3年/2023.10月
甦り:令和4年/2024始動
木下源一郎
出生地:東京都世田谷区
学生時代:福岡県北九州市小倉北区
出身大学:武蔵野美術大学
職業:グラフィックデザイナー
:クリエイティブデレクター
源重郎の孫
享年38歳五女孝子
の長男
木下源重郎と木下源一郎
原重郎の娘五女孝子の長男である源一郎が誕生してから生後間も無く、孝子は入退院を繰り返し、療養が必要な身となりました。それらを知り福岡県から東京に出向いた文子のお陰で、源一郎は源重郎と文子の暮らす福岡県世外荘で暮らせる事となりました。源一郎は母親の病状により、東京都と福岡県での往復生活を繰り返しました。孝子:享年38歳この世を去り源一郎5歳。その頃から徐々に福岡県の世外荘にて源重郎と叔母の文子・節子と共に生活をする旅路を歩むことになりました。東京での暮らしは家事の手伝いばかりで、勉強をした事がなかった源一郎は、中学校に入る頃になると文子の熱意により、本格的に世外壮に移住をし、勉学に励む学生時代を過ごせる日々となりました。家に帰ると静涯は、絵を描いていたり、書や漢文を書き、膠をぐつぐつ焚いてそれを少し冷ましながら、掛け軸を自分でも製作していました。時には行商の叔父さんやブローカー(仲介)の方々が出入りもしていました。絵や書、骨董品を持ち運ぶ人もおりました。私が一緒に暮らしていた頃は、お屋敷持ちの離れでの間借り暮らしではありましたが、当時は解らずにいた著名な方々が訪れては、一緒に食卓を囲み数日共に過ごす事もありました。何処からか聞きつけては、夕方になると魚売りや(水産業)野菜売り(農業)の叔父さん等も新鮮な食材を持って訪れて、夜の宴会準備でアトリエはいつも賑わっていました。お酒を飲みながら笑い合っているかと思うと、詩や俳句、絵や書を互いに交わし、急に真剣な顔つきになる。大人達の姿は、まるで映画のワンシーンの様でした。それぞれの描き方、筆の使い方、特徴がありました。様々な方々に出会えた事で、両親のいない幼少期の孤独と寂しさに向き合え、いつの日か励みたい気持ちを持てました。当時活躍していた祖父のお知り合いの方々の多くは、10代の頃には親元を離れ、旅を繰り返している方々ばかりでした。それらの話の殆どは現実離れをした内容だったかとも思います。絵の描き方は、幼少期から見ていたので、無意識に学ばせてもらっていた様に思っています。私が描いた絵に祖父が評価をする事は、生涯一度もありませんでしたが、学校行事などで賞を取る度に、叔母の文子が学校に呼ばれ、耳に入ると大変喜び感動していた様です。私から受賞した事等を祖父に伝えた事はなかったのですが、作品を持ち帰り祖父に見せた時には、黙ったまま、笑顔で何度も何度も、首を縦に振っていました。絵を描いた事もなかった私が、世外荘に移住してから、学生時代に数々の美術絵画作品の賞を受賞させていただきました。静涯の孫と知られるまでは、口外をしませんでした。理由は結心に聞かれる迄考えた事はありませんでしたが、自分の実力を試したかった思いからなのか、育ててもらっているという引け目だったのでしょうか、、当時は狭い環境の中、静涯の孫と知ると急変する方々をたくさん学んできましたから。私は自分が描いた絵を祖父に見せるのは、とても恥ずかしいと思っておりました。姿を真似て一緒に絵を描いた日々を懐かしく思う時があります。竹や梅の絵にはよく二人で大笑いをして描きました。全てに当たり前なんてなくて、育ててくれた事に深い感謝しかございません。
筆:静涯結心
続:竹・梅の筆による描き方
:竹・梅のグラフィック表現
昭和33年時刻表より
『東京から博多間』
特急:17時間25分
急行:23時間15分
普通:34時間23分
叔母等とは
源重郎の娘
次女文子・三女節子
静涯結心
源重郎の曽孫
源一郎の長女